2005年7月31日 No.763
| 平和行進羽村を通過 |
| 広島、長崎への原爆投下から六十年。今年を核兵器廃絶への転機の年にしようと、国民平和大行進が十万人の参加で、全国で網の目のように取り組まれています。 今年は東京土建西多摩支部の清水梅夫さん(写真先頭左)が「通し行進者」として、五月七日、北海道礼文島を出発し、青森、秋田、山形、新潟、長野、山梨を経て、七月二十一日、甲武トンネルから東京に入り、二十三日、羽村を通過しました。 羽村市役所前で行われた出発集会で、遠藤企画課長から並木心羽村市長の激励のメッセージが紹介されました。 この行進は二十七日に上野東照宮に他のコースとともに集結しました。 |
| 長崎原爆投下・・地獄絵巻が (母から聞いた話の概略を書きとめました。 中原雅之) |
| 父は日本国有鉄道門司鉄道管理局長崎管理部に勤務しており、道ノ尾の官舎(今でいう社宅)に住んでいた。 母は家にいて突然、「グワーッ」と大きな音がして、南側の部屋の戸が奥の部屋まで飛んできたので、近くに爆弾が落ちたと思った、爆心地は3 ほど南の浦上天主堂の近くだった。長崎市内の逓信講習所に通っていた妹(私の叔母)の様子を見に浦上のほうに向かうと、あたり一面焼け野原で、服も髪も燃えてなくなった黒焦げの死体がころがっていた。離れたところにいた人でも、やけどして、水をもとめてさまよい、水溜りや、水槽で水を飲むとすぐに息絶えた。馬が黒焦げになったまま立って死んでいた。長崎市は港の後方が山に囲まれたすり鉢状の地形で、市内から見渡す山の緑がすべて、黒焦げになっていた。 父はその時平戸に出張に行っていた。出張から帰ると、家に帰る暇もなく、同僚たちの遺体を収容し、火葬場も焼けたので、焼け野原に廃材を積み上げて、遺体を荼毘にふした。これが一週間以上続いた。 |
| 私の思い・・・中原雅之 これはまだ若かった父にとって大変な事件であったと思います。昨年、亡くなるまで自ら語ることがなかったということは、それだけショックが大きかったことを示していると思います。 私は母や叔母の話を聞き、学生時代から核廃絶運動に取り組んできましたが、憲法9条改悪、戦争肯定教科書など歴史を逆戻りさせる動きが強まっているだけに、被爆や戦争体験を風化させない運動がますます重要になっていると感じています。 |